神奈川県立横須賀高校を経てアメリカ・ラスベガスに留学した伊東慧吾(いとう けいご)さん。
日本で大学受験の勉強をしているときに、運命的に出会ったのがアメリカ留学という選択肢だったと言います。
「留学するのに大義名分はいらない」と語る慧吾さんに、日本の野球少年がアメリカでアスレチックトレーナーになるまでの道のりを聞きました。
もくじ
アメリカ留学という新たな選択肢
アメリカ留学する前は日本でどんな学生でしたか?
性格的にはみんなの中心となり行事ごとをまとめている学生で、スポーツは野球を小学校2年生から高校3年生まで約10年間やりました。
小学校、中学校は成績も良く優等生でしたが、その反動か高校生の時は授業中は居眠りばかりで、部活だけをしに学校へ行っているような学生でした。
アメリカ留学を決めたきっかけはなんでしたか?
高校3年生の10月までは日本の大学受験に向けて勉強していて、たまたま親に「受験に失敗したら、あなたに浪人する胆力は無いからアメリカにでも行けば」と冗談で言われたのがきっかけかもしれません。
それまでは自身の進学先をアメリカの大学でなんて考えたこともなかったのですが、そのことが気になって全然勉強に集中できなかったため、とりあえず調べてみることにしたんです。
高校の進路相談室の人に相談したり、英語の先生に話を聞いてみたり、留学雑誌を買ったりと自分なりにアメリカ留学について調べていくと、自分にも可能性があるのではないかと考え始めたのを覚えています。
しかし留学の話を母親に相談したところ、自分の高校での授業態度と成績が良くないのを知っていたので大反対でしたけどね。
アスレチックトレーナーになりたいと思ったのはいつからですか?
私は野球を10年間やっていましたが小学生の時から肘がずっと悪く、その時に助けてくれたのが接骨院の先生でした。
肘の悪い僕がずっと野球を続けてこれたのは、親身になって面倒を見てくれたその先生のお陰ですし、野球を引退した後はその人みたいにスポーツトレーナーになりたいと思っていました。
どうせやるなら一番上のレベルで挑戦したいと、野球で一番上のレベル、メジャーリーグでトレーナーになりたいと思ったのもこの頃です。
でも実際にはメジャーリーグで働くにはどうしたらいいのか何も知らなく、留学の為の説得材料として調べていたときに、初めてアメリカの4年制大学を卒業して国家試験を受けなければいけないということが分かりました。
アスレチックトレーナーになるためには本格的にアメリカ留学しなければいけないことが分かったので、親にも事情を説明しいろんな留学斡旋(あっせん)会社の資料を集めました。
多分15社くらいから資料を集めて、7~8社の説明会に行ったと思います。
アメリカのいろんな学校の資料を見比べていた時に、たまたまラスベガスの学校にアスレチックトレーナー学部があることが分かり、親や斡旋会社の人相談しラスベガスに留学することにしました。
日本にある語学学校に行ってからアメリカに留学することも出来たと思います。なぜ高校卒業後にすぐアメリカ行きを決めたのでしょうか?
日本を出ないと英語力が伸びないと直感で思ったんですね。
留学すると決めたものの英語はダントツに苦手で、高校の5段階評価では最低評価の1に限りなく近い2で、英語の先生に留学の話をした時も、「お前の成績じゃうつ病になって帰ってくるぞ」と真剣に言われました。笑
入学に必要なTOEFL(英語力を測るテスト)の点数を日本で取ってから留学させるという語学学校も沢山ありましたが、そこでの学費や生活費を考えた時に、英語圏の国で生活した方が良いだろうと判断しました。
また私が通ったラスベガスには全米で一番のシェアを誇る、大学進学を考える留学生向けの語学学校があり、一定のレベルのクラスをパスをするだけでTOEFLを受けなくても大学に入学できるシステムが魅力的でした。
アメリカでの大学生活
高校卒業後はラスベガスの語学学校に進学したんですね。初めての海外はどうでしたか?
実は色々なご縁があり、アメリカに留学する前の高校在学中にフィリピンで4週間留学していたんです。
フィリピンの4週間では英語が伸びたというよりは、自分は海外でも生きていけると言う自信を得ることができました。
ラスベガスの語学学校に入学してクラス分けテストを受けてみると、案の定点数は低く、12クラス中下から4番目のクラスからのスタートでした。
レベル9をパスすれば短大に入学でき、一番上のレベル12をパスすると4年制大学に入学できるシステムでしたが、私は英語力を十分につけたかったので、約9か月その語学学校で勉強し1番上のレベルをパスした後、まずラスベガスの短大に進学しました。
大学と語学学校で、授業の難しさなど違いを感じましたか?
はい、私は短大で全然授業についていけなくて、試験で何を聞かれているのかも分からないから、回答欄を全部Cにしてやり過ごしたこともありました。
生物学が特に苦手で、単位を落として同じ授業を3度も受けたこともあります。
かといってそこまで自分を追い込んで勉強するようなタイプではなかったので、当時の私は結構ダメ学生でしたね。
大きな夢を抱えてアメリカに来たくせに覚悟が足りなく、留学を甘く考え、ダラダラとした大学生活を二年間送りました。
大学編入後の入学部試験の結果はどうでしたか?
やはり今まで勉強していなかったのが原因で、最初に受けた試験は落ちてしまいました。
この入部試験は当日の筆記試験の点数(100点)と、今までの成績(GPA×25点)の合計で決まります。
大体40~50人くらいが試験を受け、二つの合計点の上位20人までが面接試験に進むことができ、そこから面接に合格した15人がアスレチックトレーナー学部に入部できる仕組みです。
私は当日の筆記試験の点数は良かったのですが、今までの成績が足を引っ張り、不合格でした。
最初の試験に落ちてから、自分の中で変わったことなどありましたか?
試験に落ちて悔しい気持ちはあったのですが、悔しいと思えるほど勉強していなかったことに気づいたんです。
そこでようやく、このままじゃ一生試験に合格出来ないと気づきましたね。
そこからは授業でも最高評価の成績を取ったり、成績がまだまだ足りなかったので、親にお願いして学部とは関係のないクラスを余分に2つ受けさせてもらい、自分の総合成績を上げようとしました。
筆記試験でも点数を取らなければいけなかったので、試験の半年前から勉強し、万全の態勢で試験に臨み、2回目は無事合格しました。
また学校外でも積極的になろうと思っていたところ、偶然にアスレチックトレーニング学部ですでに勉強している日本人留学生の方に出会い、その方がラスベガスでアスレチックトレーナーとして活躍する日本人の方を紹介してくれたんです。
その人は今では私の師匠でして、当時会ったばかりの私に、いつでもインターンに来て良いからと言ってくださる様な、とても親身にしてくださる方でした。
なので私もその御厚意に甘えさせていただき、冬休みや夏休みなどの長期休暇中は週4~5で師匠の働く高校でインターンをしました。
そこで改めて、アスレチックトレーナーというはどういう職業なのか、また自分の意識の低さに気づきましたね。
結果として遠回りはしましたが、他の学生より多くの実務経験を積めたことは今では自分の自信になっています。
アスレチックトレーナー学部ではどんな授業を行うのでしょうか?
アスレチックトレーナー学部は5学期あり、毎学期2〜3クラスで筋肉の動きを学ぶ解剖学、怪我の種類や病理、どういったケースではどんな怪我が起きるのかなど、アスレチックトレーナーとしての基礎知識やその処置法を学びます。
骨や筋肉のことに関しては特に学びますね。
座学の授業がほとんどでしたか?
授業形態は座学と実習授業のハイブリットでした。座学で学んだ事を実習授業でクラスメートとパートナーを組み練習していく形です。
また私たちには実践経験が求められるため、午前中は学校で授業を受け、午後はそれぞれのインターン先で実習をします。
私の大学は卒業までに合計1100時間のインターン時間が必要で、それがアスレチックトレーナーの国家試験を受けるための受験資格の1つになります。
今年の5月に大学を卒業されたと聞きました。大学生活を振り返り、一番苦労したことはなんでしたか?
高校生時代に勉強してこなかったので、勉強するという習慣が自分の中で無くなってしまい、その意識を変えるのが一番大変でしたね。
その意識はどうやって変えましたか?
そこでも新たな出会いがあり、たまたま知り合いの日本人の方がアメリカの医学部を目指している男性の方を紹介してくれたんです。
私の事情を相談させていただいたところ、彼は医学部なので私と勉強する分野が重なっていたこともあり、週1~2で家庭教師みたく勉強の面倒を見てくださいました。
その時に彼が「君はこれだけやらないと試験には合格しないよ」と指標を示してくれましたし、「こんなに優秀な人でも、ここまで膨大な時間と量を勉強しなければ医療従事者にはなれないのか…」という衝撃が、自分の意識改革に繋がりました。
意識を変えたのは自分だったと思いますが、その人の助けがなくては今の自分はいないと思っています。私の腐った性根を一から叩き直してくれた大恩人です。
自分にとってアスレチックトレーナーとは
つい先日、Board of Certification Examと呼ばれるアスレチックトレーナーの国家試験に一発合格したと聞きました。慧吾さんの中でアスレチックトレーナーとはどのような仕事なんですか?
選手の怪我を治したり、彼らの怪我を予防することはもちろんのこと、それ以上に選手の人生を支える仕事だと思っています。
なぜなら私たちの判断一つで、その選手の人生を変えてしまうことだってあるんです。
例えば、私がインターンをしている時に、アメリカンフットボールの試合で一人の選手が頸椎(けいつい)骨折という首の骨を折る大怪我を負いました。
現場にいたアスレチックトレーナー達の処置が迅速で的確だったことで、その選手は杖なしでも歩けるところまで回復し、今では選手として復帰するためのトレーニングも再開しています。
もしあの時の対処が間違っていたら、その選手は選手生命を終えるどころか、怪我した時は手足が動かせなかったので、この先もずっと車椅子での生活だったかもしれません。
そう考えるとアスレチックトレーナーは、選手生命だけでなくアスリートの人生、またその家族の人生も背負い成り立っている仕事なんだと思います。
偉大なる先人たちの仕事ぶりを目の当たりにし、そう感じました。
これからコロナの影響で仕事を探すのが大変だと思います。最後に、これから目標を聞かせてください。
私の目標は渡米当初と変わらず、MLBでアスレチックトレーナーとして働きチームに貢献することです。
まだまだ長い道のりで、今やっとスタートラインに立てたばかりですが、18歳の頃から持っていた熱い気持ちを忘れずにこれからも精進していきます。
最終的には、今までお世話になってきた方たちが私にして下さってくれた様に、これからアスレチックトレーナーを目指そうとしてる人たちの手助けをし、日本人アスレチックトレーナーが、もっと認知されるように貢献して行きたいです。
それがお世話になってきた方たちへの最大の恩返しだ思っています。
留学を考えているあなたへ
これから留学を考えている人へ、なにかメッセージを頂けますか?
よく留学と聞くと色々な弊害があり、高い志とやる気がないといけないと考えてしまうと思います。確かにお金のかかることですし両親にも負担をかけてしまうので、簡単に決断できることではありません。
しかしそれらの事は、とことん調べて様々な可能性を探ってから考えればいいことです。
なのでまずは、自分の直感を信じて行動してみてください。
そうすることで、その道が途中で閉ざされてしまっても他の活路が見えてきます。
また能動的に行動することで、あなたの背を押し手助けしてくれる人たちと、必ず出会うことができます。
私はアメリカ留学を通して様々な人と出会い、その方たちに助けて頂くことで、ここまでくることができました。ここで紹介させていただいた方たちは、そのほんの一部です。
これは私が能動的に動き、自分の意思を示してきたからであると信じていますし、これからもそうしていきます。
きっかけに大義名分はいりません、とりあえず始めてみることこそがきっかけです。
なので将来的に留学考えている方、もしくは迷っている方は、まず行動し周りに自分のやりたい事を伝えてみてください。そしたら何かが見えてくるかもしれません。
皆さんの留学の成功を願っています。
インタビューを終えて
慧吾さんと私は知り合って5年以上の仲。
勉強に身が入っていなかった時期、試験に落ちてから人が変わったように勉強していた時期など、彼が自分を変えようと苦労している姿を見てきたからこそ、国家試験に合格し認定アスレチックトレーナーになったと聞いたときは自分のことのように嬉しかったです。
人は意識と努力次第で変わることが出来ると教えてもらった気がします。
彼は昔から自分からは自分のことを口に出さない男でしたが、常に周りの人の事を考え行動し、誰かのサポート役に徹していました。
そんな彼に、選手のサポートをするアスレチックトレーナーという職業は天職ではないでしょうか。