小才は、縁に出合って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を活かさず。大才は、袖すり合うた縁をも活かす。 - 柳生宗矩
もくじ
大自然に囲まれて、学生生活を送る
私の地元は北海道十勝支部にある池田町という小さな町です。
地図にするとこの辺りです。
皆さんが想像する、“これぞ北海道”という町で、近くには東京ドーム358個分ほどの広大な牧場や、冬には何百羽という白鳥が訪れるような大自然に囲まれ18年間を過ごしました。
町の人は皆家族のような存在で、誰もが顔見知り。悪い事なんてしたときには町中にその噂が流れます。
北海道で一番大きな町、札幌までは汽車で3時間かかります。
皆さん、書き間違いではありません。北海道の田舎町の人は電車の事を“汽車”というんですね。
私もずっと汽車だと思っていたので、上京してから周りに“汽車って機関車トーマスみたいなのが走っているの?”とよくバカにされました。
そんな町ですので、もちろん外国人なんてESLの先生以外は見たこともなかったです。
英語は昔から大の苦手。なんで日本は島国で日本人しかいないのに、英語を勉強しないといけないのかと思っていたので、英語を勉強する気もありませんでした。
“英語なんて海外に行くときに必要な言葉だ、日本に一生住む俺はそんなものいらない!”と周りにも豪語していました。
今振り返るとまさか自分がアメリカで生活しているなど、当時は考えもしなかったです。
実家は家族で飲食店を経営していたので、私の幼少期の思い出はレストランでの生活。
両親はほぼ家には居なく、ずっとレストランで働いていたので食事もレストランで食べる事が多かったです。
学校が休みの日くらいは店を手伝いなさいと、8歳の時から週末はレストランの皿洗いをしていました。
常にレストランが生活の中にある環境で育ったので、自分も将来は親の店を継ぐんだろうなと思っていました。
他にやりたいことも見つからなかったので、高校卒業後は料理職人になろうと勉強は一切せず、それよりも沢山バイトして経験を積もうと、高校生の時からホテルのブライダル、マクドナルド、居酒屋とバイトの日々に明け暮れました。
そんな時転機が訪れます。
高校三年生で進路の転換
私の親父は教育熱心な人でよく将来の話をしていたのですが、ある時“お前職人になるより、先に大学で経営の勉強した方がいいのでは?”との質問が。
私の親父は高校卒業した後、料理の世界に飛びこみ38歳で祖父のレストランを引き継ぎ社長になりましたが、人間関係や経営の面での悩みが後を立たなく、自分の若い頃の勉強不足を感じてからのアドバイスでした。
若くて頭が柔らかいうちに数字、経営の勉強をした方がいい。
これから時代は飯が美味いだけではビジネスとして成り立たないと考えたのでしょう。
その言葉に感化され、私が大学進学を考えたのは高校三年生の春でした。
周りの友達は高校二年生の夏には進路を決めていたので、ここでの進路変更は周りの友達、先生からも大反対。なんせ今まで勉強してこなかったので、私の成績表など酷いもの。
必死で自分の偏差値で進学できそうな大学を探したのを覚えています。
そんな時です。
たまたま親父の知り合いにアメリカの四年制大学を卒業した方がいて、その方に高校卒業後の進路についての相談をしました。すると、
日本の大学生の大半はサークル、合コン、バイトと、大学にいるにも係わらず勉強をしない。入学試験を最後に、勉強をしなくなる生徒がほとんどだ。この中で周りに流されないのは非常に難しい。大学進学を考えているのなら、海外、特にアメリカに行くべき。アメリカの大学は日本と違い、入学するのは簡単だが卒業するのが大変。だからみんな卒業するために勉強する。アメリカの大学は本当に勉強したいから行っている学生が多い。
とのお言葉を頂きました。
正直最初は、“アメリカ?留学?英語?”と今まで考えていなかった事ばかり言われ、戸惑いました。
なんせ海外に行こうなど1ミリも思っていなかったですし、さらに英語なんて1番苦手な教科でした。
東京に一人で行ったこともないのに、海外に行ってさらに大学に通うなんて夢のまた夢でした。
海外か・・・と想像もつかない世界に憧れを抱いたのもこの頃です。
人生とは本当に面白いもので、留学を考えている時にまたもや転機が訪れます。
ドイツとの出会い
たまたま九州へ家族旅行に行った時でした。熊本にある知り合いのお茶屋さんにご挨拶に伺った時、そこにはドイツで日本のお茶を販売しているという方が二人いるではありませんか。
二人はそのお茶屋さんからお茶を買い、ドイツで販売していました。
その内の一人はなんと日本語もペラペラ、そして会話も弾みます。
留学に興味があることも伝え、駄目元で高校最後の夏休みを二人の会社でインターンシップをさせてくれないかとお願いしました。
答えは二つ返事で“もちろんいいですよ”
正直海外に初めて行くという不安よりも、見たこともない世界が観れるという好奇心の方が大きかったです。
そして待ちに待った初めてのドイツ。
ここでの体験は当時のブログを見て頂くとわかります。
ドイツ語、ましてや英語が話せない状態でしたが、本当に刺激的で人生で一番濃い夏休みでした。
そしてなにより、“絶対ドイツに留学する”そう心に決めて日本へ戻りました。
帰国してからは親にもドイツに留学を考えていることも伝え、ドイツ語の勉強を初めました。
そんな時です、親父の知人の知人にニルヴァーナニューヨークという東京ミッドタウンにあるお店のオーナーのウォーレンさんと通訳の方を交えてお話しさせて頂く事ができました。
彼はニューヨークで伝説のインド料理店になったオーナーの息子さんで、東京ミッドタウン店を経営している普通では会えない様な方です。その方にドイツ留学を考えていることをお話しすると、
“なんでドイツなの?ソーセージとか、ビールの勉強をするならいいと思うけど、経営の勉強をするならアメリカだよ。世界経済の中心はやっぱりアメリカなんだから。”
そして、
“ニューヨークに親父さんのレストランの二号店なんて開いたらカッコいいよね。”
今でもこの言葉は鮮明に覚えています。私は昔から単純なので、こんなに斬新で、かっこいい夢はないと思いました。
そして両親のサポートもあり、遂に進路を決めるのです。
“俺はアメリカに留学する。アメリカでレストラン経営学を学ぶ。”
まとめ
- 18年間を北海道の田舎町で育ち、英語や海外などには興味すらなかった。
- 高校三年生時に大学進学を考え、その時に留学という選択肢があることを知る。
- 高校最後の夏休みにドイツでインターンシップをし、世界観が変わる。
- “ニューヨークに自分の店を開く”と夢を抱き、レストラン経営を学ぶためアメリカ留学を決意。
長くなりましたが、この様な経緯でアメリカ留学という考えもしていなかった進路に進みました。
一番上の柳生宗矩の言葉は私の親父が一番好きな格言で、昔から口癖の様に言っていました。
新しい人との出会いがなければ、アメリカ留学という道には進んでなかったでしょう。
皆さんもいつどこで誰に会い、人生が変わるかわかりません。
日々の“ご縁”に感謝しながら、毎日を過ごしたいですね。